裏庭

宝塚。舞台いろいろ。

蘭寿とむ主演・青山劇場『ifi』Bバージョン感想文。※ネタばれ有。

『ifi』Bバージョン初日~の感想文。記憶はかなりあやしくところどころ改ざんされている可能性もありますが衝動のままに記します。

ネタばれ大有りです。Bバージョン未見の方はお気をつけ下さい。Bバージョンはネタばれナシの無垢な状態で観た方が絶対によいと思います。

主にAとの変化を追って記してゆきます。

Bバージョンのヒロ役は黒川拓哉さん。

オープニング・・・ユーリとヒロの映像、注目は蘭寿ユーリさんの、「あーがんばりたい、がんばります、がんばらなくちゃ」この頑張る三段活用がAは自分を律するかのようであったのがBは語尾がふんわりとやわらかくなってちょっとかわいさがプラスされているところ。ここ、セリフも変えてくるかな、と思ったのだけれどそのままでした。ヒロの人種設定は共通なのかな。黒川氏のヒロなら「白、それとも赤」のほうがしっくりするような気がした。

ニューヨークのストリート、ユーリとヒロの運命の瞬間。若者達の争いにカメラをまわすユーリ、ユーリのカメラに牙を向く若者、若者にあやまりながらユーリをとめるヒロ。このときの黒川ヒロ「え?何で(撮るの)?」一瞬、ぽかーんと佇んでしまうその様子とユーリの「撮らせて!」強引さがちょっと楽しい。Bのヒロとユーリはどちらもちょっと子供っぽいところがあるように感じた。

そしてヒロは若者達の争いに巻き込まれてゆく、あわててその争いのなかに飛び込んでゆくユーリ、エキサイトしてゆくその場をつらぬく叫び声、倒れるヒロ・・・その映像はヒロを真正面からとらえている。ヒロはこちらに視線をむけたまま地に伏すように次第にフェイドアウトしてゆく。ヒロは、何を見ていたのだろうか、ヒロの視線の先に、在ったものは。

Aはユーリの絶叫と共に目を見開いたまま地に倒れたヒロが映り、その映像は終わる。すでにここでAとBの映像に相違が有り、そうしてここが最も重要なifi・・・分かれ道であったのだと云うことをあとで知ることになる。


THIS or THAT。
Aで感じた違和感。ヒロの弟が従業員の女と「フィルムメーカー」のユーリの記事を片手に会話をしているところ。ユーリは聞こえてくる彼等の会話にこたえるようにぽつぽつと話をしているけれど、彼等と会話をしているわけではない。この時のユーリの言葉はユーリの心の声なのだと思っていた。しかし、Bの結末を知った今、「彼等にユーリの声が聴こえるわけがなかった」ことを知る。そう思ってこの場面を観てみると、ユーリはTHIS or THATの客の誰とも触れあってはいないことに気づく。何故、誰もユーリに声をかけないのか。ユーリもこの店の常連であり、皆、顔見知りであるはずなのに。

ただひとり、ユーリと触れあうことの出来る存在。それが占星術師(ケント・モリ)と彼の傍らにいつも在る影のような存在(ストリードボードP)。この物語を『オルフェウスとエウリューディケ』になぞらえるなら、占星術師はオルフェウスの願いにより彼を妻のいる冥府へと誘った冥府の王ハーデース、Pちゃんはハーデースの忠犬ケルベロス─この構図がぴったりとあてはまる。占星術師が誘うifiの世界・・・それは、黄泉の国である。

ユーリが占星術師から渡された薬を飲む瞬間、下手で椅子に座り雑誌を読んでいたヒロの弟が、は、としたように上手のユーリの方に視線をむける。それは、薬を飲んだユーリへむけられたもののように見えたけれど、もしかして、弟の視線の先に在たのは「ユーリ」ではなく、ある覚悟を決めた彼が、意を決して「占星術師」へとむけたものだったのではないだろうか。弟もまた、占星術師にifiの誘いを受けていたのだとしたら・・・?彼もまた、ユーリを連れ戻す為に・・・それとも、ユーリと共に、「旅にでる」為に。
「旅に、でちゃうんだよね、」
何の為に、弟は「店をしめて旅にでる」のだろうか。従業員の女の言葉が意味深に聴こえてしまうのはいささかやんちゃすぎる思考だろうか。

THIS or THATで占星術師の導きによりifiの世界を訪れたユーリ。
『マスカレード』の入口でBのユーリが選択するのは、combine ”ばらばらのものをひとつにする”。

ここ、扉の開く映像はAもBも客席からみて左側に統一されている。つまり、Aではcombineの文字が右側に写しだされていたけれど、Bでは左側になっている。かわりにAでは左側だったdividが右側に、と云うふうに。記憶違いではないと云う自信はないけれどちょっと気になった。


舞台は仮面舞踏会、夫婦は不慮の事故で娘を死なせてしまう。そこで現れた占星術師はto be or not to be・・・生か死か、夫婦に選択を迫り、「ifi」の世界へと誘う。妻は娘を生きかえらせるべくifiの世界へと踏込む。しかし、娘は生きかえらなかった。「オルフェウスとエウリューディケ」の神話そのままに、死者を連れもどす事はできなかったのだ。

夫婦はそれぞれ勝手気侭に暮らしていた。それこそ仮面夫婦のように二人の仲は冷めきっていて、家族の絆はもはや失われていた。それゆえにほったらかしにされさみしい思いをしていた娘はウサギのぬいぐるみだけが唯一の遊び相手であり、いつも一人で遊んでいた。娘を失い、夫婦は自分たちの罪深さと愚かさに気付く。娘を死なせてしまったのは自分達の所為だと、己に怒り、どんなに後悔しても還らぬ命に嘆き、世界を呪った。
その二人のまえに現れたのは、涙の海より来る、嘆きの王・・・蘭寿KING。

王と名はついているけれど、蘭寿さんは男体化しているわけではなく、女性のままの姿です。黒のサテン地に刺繍のはいったパンツはAの時と同じもの。立てた襟に後ろの髪の毛がすっぽりと収まるので短髪に見える。テールコートのような後ろ身頃のシルエットはスカートのようにも、マントのようにもみえる。ノースリーブのシンプルなトップス。上下がつながっているようにみえるけれど、後姿でセパレートなのがわかる。仮面はAがラメで飾られたビビットなものであったのに比べて光沢のある黒に、下部にだけ白っぽい、まるで涙をながしたあとのような飾りが施されている重厚なイメージ。肘から手首までの・・・黒い手袋、アームウォーマーみたいな・・・よく見かけるけど何と云う名称なのでしょうかねあれは。

場面の背景はAの「炎」とはうってかわって「水」。おしよせる涙の海にのまれる人々。その涙の海より現れる王。場面の色調は、青。音楽もAのロックな感じからスローな雰囲気に。歌詞は基本は同じだけれど、怒りのQEENから嘆きのKINGのバージョンに少し変化している。

Aの怒りの女王とBの嘆きの王は何を意味しているのか。

怒りの女王は妻の象徴。嘆きの王は夫の象徴。妻は狂うほど怒りに満ちていた、その怒りは己に向けられたものであったがその激しさは時に他者にまで及ぶほど攻撃的であった。その妻に寄り添う夫はいつもうなだれていて、哀しげな瞳で狂ってしまった妻を見護っている。「己への怒り」と「失われた命への嘆き」・・・怒りの女王と嘆きの王は、夫婦の中に存在する二つの感情が具現化された姿なのではないだろうか。

Aのdividでは「ばらばらであった」ものを、Bのcombineで「ひとつにつなげた」。Aの「炎」をBの「水」で鎮める。この場面は、Bをもってしてはじめて完全なる救済がもたらされ、完結する。勿論、舞台的にはA、B共に独立しているのでどちらか一方だけを観ることに支障はないけれど、AとB、ふたつにしたことの意義も、ちゃんと存在している。猛る炎に焼かれた荒野に優しい雨が降れば、そのあとに生まれるものは、新しい命の萌芽である。

・・・なんてコトはどこにもまったく書いてありません。すべて私の想像そして捏造です。ちょっと発想がリリカルすぎる気はする!


「エステュディオ」
Aでは男はプロデューサーのスカウトを断り、仲間たちと共に音楽をつくる道を選んだ。その結果、次第に仲間達とは意見が食違い、一人、また一人と去ってゆく。お金も底をつき、荒廃してゆくスタジオ。相棒とも訣別し、ついに男は一人きりになった。

もし・・・あのときプロデューサーの誘いを受けていたら・・・。その「ifi」の世界が、Bバージョンの世界。

Bでは時を遡るように場面が展開します。
ヒット曲を生み、何不自由のない暮らしに奢る男。女をはべらせ取巻きにかこまれる自堕落な生活。しかし、まったく新しい曲を書こうとしない、「Go to Mars」以降ヒット曲のないことにプロデューサーは激怒している。対立する男とプロデューサー。やがて、彼に媚び、彼のまわりにいた人々の態度に違和感を感じはじめる男。そうして自分が「曲を書かない」のではなく「曲を書けない」と云うことに、男は気づく・・・。

仲間を裏切り、有名プロデューサーと契約したものの、なかなか曲が生まれないことに男もプロデューサーも苛立っていた。そんな中、彼が差し出す一枚の譜面、「Go to Mars」が大ヒットし、男は一躍、スターの座へと躍りでる。

仲間達と音楽を楽しんでいる男、相棒と曲を作り、仲間と歌い踊る日々は何よりも素晴らしかった。そこへ現れた有名プロデューサーは男ただ一人だけをスカウトする。男は仲間を裏切り、相棒を捨て、プロデューサーと共に行ってしまう。

これがAとは異なるifiを選択した彼の世界。

そうして時は再び現在へ。
結果、大金も手に入り、スタジオは豪華になり、人は集まってきたけれど、かつての情熱は失われ、男のなかにはいつもぬぐいきれない虚しさがあった。

ifi・・・選んだはずなのに、どちらの世界でも、結局、彼は「孤独」であった。しかし、その孤独の魂によりそう魂が在った。それが、彼の相棒である。Aのifiを選んでも、Bのifiを選んでも、相棒は、彼の元へもどってきた。

けっきょくラブラブなのかよ。

たとえどの道を選んでも、けっきょく二人はむすばれる運命。そう云うことなのか。ごちそうさまでした。


ここで、ifiの世界なんて、存在しないと云うことに我々は気づきはじめる。Aで弟が言った、「ifiなんて、ない」と云う台詞を思いだす。そう、人生は編集できない。やり直しなんて、できない、最初から、「ifiなんてない」のだ。


あ、蘭寿さんの白ワンピは健在です。おみ足は健在です。有難い!!!!!


「キャバレティスト」
黒い羽の髪飾りでサイドをとめて、Aでも着用していた白のチューブトップのうえに黒の格子状の・・・ベスト?白のチューブトップがまるっと見える仕様です。Aではじらうようにお腹の部分をおおっていたベールがなくなり、おへそ解禁です。生腹です。腹は思ったよりわれていませんでした。へたん、とした、ぺったんこなお腹です。もっと腹筋の存在を感じるかと思っていたのですが予想外なスレンダー美少女仕様のお腹に動揺が隠せませんワッショーイ!!!ひらひらがついているため、横腹は見えません。スカートの後部分だけがひらひらとついており、ふくらはぎ丈のパンツをはいています。パンツは透け感のない布と、シースルーの布が交互に縞模様になっています。ひらひらのせいかアイドル感が増しています。Aよりもセクシー度はダウンしましたがカワイコちゃん度はアップしました。

Aでは最初、佐藤氏とラスタ氏で蘭寿さんを取り合っているかのように見せてからの、佐藤氏と蘭寿さんでラスタ氏の奪い合いでしたと云うオチでしたが、Bでは、あきらかにSHUN先生と蘭寿さんの女の闘いです。もう最初からSHUN先生ガチゲイ全開でラスタ氏に猛アタックです。蘭寿さんも負けじと挑みますが、むせかえるようなガチムチガチゲイに敵うはずもなく、嫉妬の形相で二人を眺める蘭寿さん。蘭寿さん、嫉妬するときこう云う顔するんだ・・・はじめて見る蘭寿さんのガチ嫉妬顔・・・なんかすごいイイもの見た感でうわあああああああああ・・・!

SHUN先生とラスタ氏のカラミはちょっとシャレになりませんさすがの私もこう云うときどう云う顔をしたらいいのかわかりません。

ラスタ氏が超絶ヒロイン気取りです。ヅカファン的にわかりやすく例えると、『あかねさす紫の花』の額田王ポジです。二人の男と女から激しく求められ、苦悩するヒロイン。


Aでは、ラスタ氏は蘭寿さんを振って佐藤氏の元へとゆきました。Bではどうなるのだろうか。蘭寿さんの恋は成就するのか。ラスタ氏の選択したifiのゆくえは・・・

ラスタ氏はSHUN先生と肩を寄せ夜の二丁目へときえてゆきました。

やっぱりそうなるのか。

AでもBでもゲイが勝利するのか。AでもBでも、結果は、やはり同じなのか。

「ifiなんて、ない」
そう、ここでも、ifiなんて、存在しなかったのだ。




突然、ユーリとヒロの運命を引裂いた夜の映像が、映しだされる。Aにはなかった展開。喧嘩をする若者達、カメラをかまえるユーリ、ユーリに攻撃をしかける若者、ユーリを制するヒロ、そうして喧嘩に巻込まれてゆくヒロ、ユーリの悲鳴、攻撃を受けるヒロに駆寄ろうとして猛る若者に阻まれるユーリ、そして、突然、一発の銃声、その、銃の弾丸が貫いたのは・・・・・・

ユーリの心臓であった。


ifi・・・もし、あのとき、死んでしまったのがヒロではなくて、ユーリだったとしたら。
それが、この物語の真実だとしたら
ifi・・・なんて、ない
死んだのはヒロではなく、ユーリ
これが、たったひとつの、真実



あの夜、この世界から失われたのは自分であったことをユーリは思いだす。もう、自分が、自分だけが違う世界にいることに、ユーリは気づいてしまった。

崩れゆくユーリに駆寄るヒロ。
「君が気付いたとき、傍にいたかった、」
ヒロはユーリがいつ、真実に気付いてしまうのか、ずっと見護っていたのだ。真実に気づいて欲しくないと思いながら、しかし気づいてしまったそのとき、大丈夫、そう言って、彼女を抱きしめてあげられるように。

Aで、ユーリが「あたしがエウリューディケなら、あなたオルフェウスになってくれる、」と歌う歌詞をずっと疑問に思っていた。この状況からすると、黄泉の国へ恋人を探しにゆくオルフェウスはユーリで、エウリューディケはヒロであるはずなのに。ifiの世界のひとつとして、「もし、あなたのように私がいなくなったら、あなた、あたしを探しにきてくれる、」と云う意味なのだろうと、そのときはそう思っていた。
しかし、ここにその歌詞の真の意味が在った。
そう、死んでしまった恋人・エウリューディケはユーリで、ヒロこそが彼女を探しにゆくオルフェウスであったのだ。

そうして、ヒロが”エウリューディケ”ではなく、”ユーリディケ”と呼んでいる事に気づく。名前の呼び方はいろいろあって、実際、エウリューディケでもユーリディケでも、どちらの呼び方でも構わない。
ユーリディケ
名前の中に既に真実の片鱗があったことに、今更ながらに気づかされ、膝を打ちました。



ヒロはあの夜、重症を負い、病院で半年間、眠ったままであった。深い深い眠りのなかで、ヒロは死の自覚のないまま魂となって彷徨っているユーリを探すために、占星術師に導かれ、ifi─黄泉の国を訪れた。ifi・・・恋人を黄泉の国からつれて還りたいのならこの薬を飲んで、けれど、掟は守らなければならないよ・・・掟をやぶれば恋人は還らない、そうしてこのまま二度と目が覚めることなく、お前も死ぬことになる・・・そう、言われて、ヒロの旅もはじまった。

そうして、ユーリをみつけたヒロは自分といっしょに還ろうとユーリに告げるが、自分が既に死んでいることに気づいたユーリはヒロに生きとし生ける者の世界へ戻るよう諭す。もう私は貴方の世界には行けない。そう、
「ifiなんて、ない」
ことを、ユーリは知ってしまったのだから。


ここで、ヒロの弟の役割を考える。

弟が、物語の途中で、ifiの世界を彷徨うユーリに、「僕と一緒に行こう、」と云うこの台詞、Bの結末を知った上で聴くと、いったいどう云う意味なのだろうかと考えてしまう。「一緒」に、「何処」へ行こうとしたのか。そこでifi・・・ユーリの事を密かに慕っていた彼は、彷徨えるユーリの魂を救う為に、ユーリと共に死の世界へ行くつもりだったのではないか。オルフェウスである兄がユーリを自分と同じ世界に連れ戻すことでユーリの魂を救済しようとするのなら、自分はユーリと一緒に彼女の世界へ行くことで彼女の魂を救おう・・・「旅にでる」「店をたたむ=もう帰らない」そう言い残して、彼も占星術師の薬を飲んで、ifiの世界へ行ったのではないか。


「キャバレティスト」の歌手が、Aではヒロ役のジュリアン氏であったのですがBでは弟役のジョンミン氏になっていることの意味。物語に関係しているのか。それとも舞台的な理由か。物語として考えてみると、Bのヒロは、イコール、ユーリ自身と重ねることができる。この物語を旅する主人公はユーリの姿をしているけれど、ヒロも同じように、ifiの世界を旅してきたのではないか。黄泉の扉を開け、ユーリに会うために、この物語を旅していたのはヒロ自身であったとも考えられる。つまり、SHUN先生とラスタ氏を奪い合っていたのはヒロであった可能性、ヒロだったのかもしれないと云うことです。もう何の言訳もきかないほどのガチムチゲイ臭なのでそこはソッと蓋をしておきたいところですが。そうなると、物語の俯瞰者であるキャバレティストの歌手がヒロでなかった理由に頷ける。

以上、まったくの想像そして想像でございます。


Aではヒロは弟と抱擁し、別れるが、Bでは抱擁はない。ヒロは弟と別れるのではなく、これからふたたび目覚めた世界で再会するのだから。
そうして、ユーリは一人で、黄泉の世界へ行くことを選んだ。ヒロと、ヒロの弟へ別れを告げて。



病院のベッドで、意識不明の状態であったヒロは目を醒ます。そうして見つけたのは、ひとつの映像。Aではヒロがユーリの姿を撮影していた映像。Bは、ユーリがヒロの姿を撮影していた。ユーリのレンズを通して見える世界。ユーリの見た、ヒロ。
あの言葉を、今度はユーリがカメラにむかって囁く。
「もし、ずっと一緒にいて欲しいって言ったら、あなたは約束してくれる、」
ここが、いちばんの衝撃でした。「約束なんて何の意味があるの」そう言っていたユーリが、密かに、約束を、求めていた。ヒロとずっと一緒にいたいと、願っていたのはユーリのほうだった。
ずっと一緒にいるよ、永遠に、
そう、言いたくても、ユーリはもういない。あの画面の中で微笑んでいるユーリは、もう、何処にもいないんだ、そう思うと哀しくて哀しくて、せつなくて仕方がなかった。
会いたくてももう二度と会えない人がいると云う、その事実を何よりもつらく痛く、このとき感じました。

だからそのあと舞台の上で蘭寿さんをみたとき、何故だかものすごくほっ、と、すると云う、なんだか自分でもちょっとあぶない感覚で何と云うか蘭寿さんがこの世にいてくれてよかったと有難うございます感謝。



浄化された魂となったユーリはTHIS or THATに在た。
明日、店、たたむんでしょう、
ユーリの声は、弟には届かない。
誰もユーリを見ない。
そう、ユーリはもうこの世にはいないのだから。
「・・・ああ、あたし、ほんとうに死んじゃったんだ、」

目覚めたヒロは真っ先に、このTHIS or THATの人々を映画にする、そう言っていたとヒロの弟は言う。このヒロの決意は、ユーリと共に、もしくはユーリと一体となって、ifiの世界を旅して、ifiの世界に在たTHIS or THATの人々を見てきたからではないか。この旅の果てに、ユーリはTHIS or THATの人々の映画を撮りたいと想った、その想いにシンクロして、その願いをかなえることの出来ないユーリのかわりに自分が映画を撮る。もしくは、自分のなかに在る、ユーリと共に映画を撮る。
「ずっといっしょにいてくれる、」
ユーリの想いを継ぐ事で、ヒロは永遠にユーリと共に在ろうとした。
ユーリとの約束を、護る為に。



AとBでは逆転したヒロとユーリ。あの日あの夜、ユーリとヒロ、ほんのすこしの運命のかけちがいで二人の生と死は運命づけられた。ヒロとユーリ、どちらにも死ぬ可能性はあった、だから、生残っても、それを罪だと思わないで。ifiがあったら、なんて、後悔しないで。Ifiなんて、存在しない。今があるだけ。今、この瞬間、

生きているのは、あなたなのだから。

そう言っているような二つの結末だった。



想像と捏造と願望とそして創作のいりまじった感想文なので、根拠とか事実は少しもありません。完全に私的見解です。作文だと思って頂ければ幸いです。


黒川拓哉氏のヒロは、不器用で実直、真面目さのなかに優しさがあって、それは強さとも言える。緊張で固くなっているのであろうその様子も、個性とさえ感じられるほどに、Bバージョンのヒロは、こう云うヒロなのか、と思った。ユーリを助けられなかった己の力の無さに自分を責める頑ななまでの誠実さ、贖罪を求めるその真摯さ、ユーリはヒロのこう云う不器用で、そしてちょっと鈍感なところも、きっと好きだったんだろうなあ、と思った。テイストとしては日活映画ぽい様子に私が反応しました。そう、石原裕次郎さんとかを思いだすようなあの、昭和な雰囲気よ。

Aのヒロは、ユーリをつつみこむような、父性のヒロ。Bのヒロは、ユーリの母性がふんわりとひろがった、ヒロ。ヒロだけでなく、蘭寿さんの演じるユーリもそれぞれ違うユーリだった。二人のヒロに、二人のユーリがいた。

SHUN先生はガチムチ度が成層圏つきぬけてアップしてさすがSHUN先生です・・・。ラスタ氏とはダンスの属性がまったく違うので異種格闘技感がすごい、ゆえに、きれいにまとまらないところがほんとうにリアル。いる。こう云う人たち二丁目にほんとうにいる。そしてラスタ氏の乙女ヒロイン感が際立った。もうこの二人は幸せになるしかないな、そりゃ蘭寿さんも身をひくわ・・・と思わざるを得なかった。

AとBの役替り、それぞれどちらも楽しかったです。その楽しさは、完璧。


まだこれからもBパターンを観ます。観るたびに違うものが視えてくるので、また違う、『ifi』の感想が生まれてくるかもしれません。

おつきあい頂き有難うございました。