裏庭

宝塚。舞台いろいろ。

【つづき】東宝『エリザベート』(帝劇)二幕 感想文。※ネタばれ有。

前エントリ、一幕の感想文からのつづき。

 

今回も妄想過多。完全なる私的見解です。

 

 

世界の美女祭のシーンはなかった。あれは娘役ちゃんを活躍させるためにねじこんできた場面だから当然なのだけれど、あの宝塚のルキーニさんの客席いじりのハードルの高さはいったい何なのだろう・・・。山崎ルキーニも客席降りしながらのお客さんいじりをしていたのだけれど、ものすごい威圧感があった。近くにきたら思わず目をそらしてしまうかもしれない。笑顔で近づいておどけながら悪意をふりまくルキーニ。そう、明確に、彼からは「殺人者」のにおいがしているのだ。それはもう隠しようもないほどに。

 

フランツとエリザベートハンガリーの独立をみとめたけれど、ハンガリーの王座には自分たちがついた。エルマーでなくとも、ハンガリーのみんな目を覚まして、と思うがひとまずの独立と親ハンガリー派の美しき皇后をハンガリーの人々は歓迎した。エリザベートハンガリー贔屓はかつて教えをうけたハンガリー人教師の影響である等、いろいろな説があるけれど私は馬キチだったから説を推したい。ハンガリー産の馬はヨーロッパいちの名馬である。乗馬が大好きすぎて馬のスペシャリストにまでなってしまったシシィにとってハンガリーの馬は憧れそのものだったに違いない。その馬を育む国なんか大好きに決まっている。

 

ひとりぼっちの皇太子ルドルフのもとへ、ルドルフの幼い心では抱えきれないほどの昏く深い闇からにじみでてきたように現れるトート。厳しい教育と、母を求めながらもその胸に抱かれることのない寂しさと恐怖は幼子にとっては死に値するほどの苦しみだったに違いない。ルドルフの傍らにあるトートはルドルフから生まれた彼の「死」。友達のようにいつもそばにいて、呼べばいつでもやってくる、ルドルフは幼い頃からずっと、懐に毒薬をしのばせるように、そっと、軍服のしたで「死」と指をからませていた。

ルドルフの「猫を殺した」に対するトートの反応が演じる役者によって違うのが面白くていつも注目しているのだけれど、城田トートの反応にニヤリ、としてしまった。無反応だったのだ。まるで興味などない、聴いているのか聴いていないのか、優雅な貴婦人のように、無慈悲な嵐のように、超然として只、そこに在るだけだった。神様って、こう云うかんじだよね。

もちろん、ルドルフとトートのハイタッチもない。(これはいつもあるわけではないが。)でも、城田トートと仔ルドルフの身長差でハイタッチとかやられたら、愛くるしすぎて爆発しそう。仔ルドが背伸びしてぴょん、て跳びはねても城田トートが思いっきりかがんでも、どちらでもよし。

 

精神病院。

シシィの病院訪問を揶揄するルキーニ。仕方なく、義務だからやってるんだぜ、と言わんばかりに。そう言われるとたしかにそうも思えてくるからネガキャンこわい。シシィの家系には精神病者がおおくいたため、シシィはいつか自分も狂ってしまうのではないかと云う恐怖を抱えていた。その恐怖とむきあうため、精神病者と交流していたのだろう。精神病院の描写が宝塚版よりもハードで、さすがのエリザベートも怯む様子をみせる。

「ひざまづくのはあなたよ、」

このエリザベートの口調がとても容赦のない、支配者のそれで、怒りさえ感じた。吃驚した。ここはそう云う捉え方をしていなかった場面なのだけれど、ただただ慈悲深いよりも、一国の皇后としてのプライドや上に立つ者の厳しさをかいまみせる、このシシィ、すごく好きだ、そう、思った。

あなたが不自由なのは身体だけで魂は自由、とヴィンディッシュにささやくエリザベート。なんだか、ものすごく傲慢にみえた。はっきり言って、あんな贅沢な暮らしをしておいて、不自由を嘆くとか、いい加減にしろと言いたくなる。エリザベートは目のまえにいる哀れな女のうえに君臨していた、していながら、自分のほうが不幸だと、嘯く。不幸なのだとしたら、皇后であることを心でも身体でも自ら捨てることの出来ないことだと思う。不幸と云うよりも哀れだ。自分を不自由にしているのは自分自身だと云うことに気付かない、気付いてもどうすることもできない、まさに、不幸は己が生みだしている、不幸の太初と終焉のエリザベート。宝塚版では感じたことのない、むしろ何でそう思わなかったのだろうかと思ってしまった。ひとつの場面でも演じる役者によりこうも感じるものが違うのだな、と思う。

宝塚版ではシシィとヴィンディッシュの扇の交換バージョンがいっとう好きなのだけれど、このシシィとヴィンディッシュはひとつのストールの両端をそれぞれが手にして、ふたりがまるでみえないひとすじの光でつながっているように、見つめあい、そうしてシシィはその薄絹でヴィンディッシュの身体をふわり、と包んだ。うっとりと絹に抱かれるヴィンディッシュ。なんだかとてもせつなくなった。

ヴァイオリンを弾く患者は百千さん。

そしてヴィンディッシュ嬢は真瀬くん。エリザベートで私がもっとも配役にそわそわするのがヴィンディッシュ嬢です。シシィとヴィンディッシュのシーンがいっとう好きと言ってもいいくらい。ヴィンディッシュはもっとイッちゃってもいいと思うのだけれど、宝塚版ではやはりひかえめで、すこし物足りなさを感じていたのですが、真瀬くんの解放たれたようなヴィンディッシュ嬢。これから先もずっと観ていたいようなヴィンディッシュでした。

 

太后ゾフィと重臣たちの企み。宝塚版では数少ないコメディ要素がふくまれた場面だけれど、コメディ要素はほぼ感じられない。

娼婦を“宅配”するのではなく、自ら彼女たちの店に赴く重臣たち。

 

マダム・ヴォルフのコレクション。これも配役発表のときに誰と誰かな、てそわっそわします。目がいくつあっても足りないシーンです。(ネカマ

フランツの相手に選ばれたのはマダム・ヴォルフのコレクションNo.1のマデレーネ。彼女は“職業病”、つまり、性病持ちと云うことです。すっごい、ひゅっ、てなったのは、このマデレーネが、貞操帯をつけていて、それをルキーニが手にした鍵で開けたり閉めたりしていたことです。何故、マデレーネは貞操帯をつけていたのか。ここからは私の想像。職業病にはもうひとつの意味があって、すぐに誰とでも寝てしまう仕事熱心な、つまり淫乱と云う職業病の彼女が誰彼かまわず寝てしまわないように貞操帯をつけた。これ以上、病気をもらっても、病気をうつしても、店としては都合があまりよろしくない。ルキーニは、だからこそ、その職業病のマデレーネをフランツの相手にした。まさに、普段は客のまえにださない(だせない)「スペシャル」な娼婦として。もちろん性技はだれよりも卓越している。見えざる悪意が見えるカタチになったのが“マデレーネ”と云う存在。

そして、私が動揺したのは、・・・もしかしてマデレーネちゃんの「人魚のしっぽ」て、貞操帯だったの?!?!?!?!み、みなみちゃん・・・!!!!!ここでピンポイントで名前をだすのはタヴーだとは思うのですがどうしても、どうしても・・・、わたしの奔放な脳を止めることはできなかった・・・。

あいかわらず、お年寄りにはミッツィがいるわ。の意味がよくわかりません。東宝版ならつつみかくさずその理由をあきらかにしてくれるかな、と思ったけれどあの情報量では無理なのかな。お年寄り相手エキスパートの娼婦て何だ。想像ならいくらでも出来るのだけれども。

 

エリザベートの機械体操の機具がものすごくわかりやすく体操の機具だった。体操の最中、機具から落ちて気を失うエリザベート。ドクトル・ゼイブルガーに扮したトート閣下は迫真の演技でちゃんと腰まで曲げてよぼよぼ歩いてきた。宝塚版ではエリザベートはダイエットのやりすぎで倒れたことになっているけれど、ほんとうの理由は、フランス病(性病)にかかっていたから。ここで、ルキーニの仕込んだ悪意が見事な花を咲かせるわけです。エリザベートがフランス病にかかった経緯は当然、フランツからであり、つまり、それはフランツがエリザベート以外の女性と浮気をしたと云うことです。浮気をしただけでなく、病気までうつされた、もうエリザベートの心がフランツからぐんぐんはなれていくのが手にとるようにわかります。そのプライドから死を選ぶと激昂するエリザベート、しかし、これでフランツから、王室から自由になる正当な理由ができてラッキーとばかりにエリザベートはトートの死の誘惑を強くはね除けます。シシィてけっこう後ろ向きにポジティブだよね。

 

太后ゾフィの死。

舞台中央の昂みにひとりたつゾフィ。しかしそこはとても暗く、湿った地下牢のようによどんでいた。舞台全体にゾフィの無念と哀しみが満ち満ちていた。ハプルブルク家のことを真剣に思っていたのはゾフィひとりだったのかもしれない。オーストリア皇帝としてのフランツを誰よりも想っていたのもゾフィだけだった。しかしその想いははねのけられ、最期はハプスブルクの未来を憂いながら死んでゆく。宝塚版では姑根性丸だしでエリザベートのわかりやすい敵として描かれていたけれど、東宝版のゾフィはともすればエリザベートよりも共感できる人間として描かれていたように思う。ゾフィの真心がひしひしと伝わってきた。だから、それを顧みることをしないフランツの愚かさがいっそうと際立つ。母と子の、普遍的な関係性を象徴しているような親子。

 

エリザベートは旅にでる。皇后としてのつとめも母親としてのつとめもほうりなげて、ただひたすら狂ったように歩きまわる。おのれの過ちを悔い、もどってきてくれと懇願するフランツのことも無視して、いつになったら帰ってくるのママに会いたいとすがるルドルフからも目をそむけて。ルキーニでなくとも、あれほど強引にルドルフの養育権を奪いとったのにろくに子育てもしない、自分勝手でなんて傲慢なのだろうと思わざるを得ないが、それすらも、シシィの不幸をなおいっそうと深く残酷なものにするための前フリだった。どこまで運命はシシィに執着するのだろうか。

ちなみに、私はひたすら歩いて歩くとき、歩かねばならないとき、自分をエリザベートだと思うことにしています。そうするとちょっとテンションあがる。まだまだ歩けそうになる。おすすめ!

 

コルフ島。

ハイネの詩を愛し、みずからも詩を書くシシィはそこで父、マックスの魂と交流する。コルフ島は地中海の青くすきとおった海が輝く美しい島。しかしその片鱗はどこにもみえない、暗い海に沈んだような世界でシシィは父親の魂と会話をする。パパみたいになりたかった、でももう、パパにはなれない。シシィのもっとも幸福だった時間すら、いまは霧につつまれ、陽さえささない。そうして、シシィにとっての自由の神であった父親ももういない。詩を書くことで父親を傍らに感じていたシシィがもうその幻と会うことさえ出来なくなってしまう予感と、シシィの哀しみの底の底にあるものがみえる場面。

 

父親と息子。

政治的な意見で対立しているフランツとルドルフ。そこにはもうひとつの対立がみえる。美しいエリザベートのとりあい。フランツとルドルフのあいだには政治的な確執よりも、もっとふかくてどろどろしたものがある。それはエリザベートと云うひとりの女性の愛だ。ふたりの対立の根底にはそれがある。父と息子はエリザベートの愛をあらそうライバルでもある。これも普遍的な父親と息子の関係性のひとつだけれど、その母親が女神の如くの女性であるため、また母子のつながり夫婦のつながりが希薄であったために二人ともこじらせてしまった感がある。

 

舞台をおおいつくす、ハーケンクロイツヒトラーが現れるのはまだまだずっと先の時代で、もちろんこの時代にヒトラーは生まれてもいないしナチスだって存在していない。にもかかわらずここでヒトラーの存在を予感させるハーケンクロイツを使ってきた、まさに未来を知っているからこそできる、効果的でわかりやすく、気分の悪くなるような演出なのだろう!ヨーロッパの昏い未来を匂わせるのにこれほどダイレクトで乱暴な演出があるだろうか。すべての忌まわしきものの象徴としてのナチス・ドイツの鉤十字に、不快感がぐわっとおしよせてくる。ぞっとする。憎しみさえ感じる。この鉤十字を見ただけで、誰もがこれからヨーロッパを、世界を襲う凄惨な血の時代をいっきに理解することが出来る。この舞台で描かれる争いはやがて第一次世界大戦を経てそうして第二次世界大戦にまで至る長い長い歴史につながるのです。そして、それすらもすべてがエリザベートの所為だと言わんばかりにルキーニは囃したてる。エリザベートにどれほどの業を背負わせるつもりなのか。

 

トートに誘惑され=「死」への焦燥につきうごかされ、ルドルフはハンガリー独立運動に加わる。この、ルドルフの利用されている感。誰も本気でハプスブルクの皇太子のことなど信用していない眼をしている。そう見るのは、穿ちすぎだろうか。

闇が広がるの振付がふたりのデュエットダンスと云うよりも、ルドルフの足元にしのびより追いつめてとりつこうとするトートと必死に逃げるルドルフと云う、デュエットダンスの様式美から隔離された生々しいからみそのものだった。カサカサカサカササーと四つん這いでルドルフにせまるトート閣下はちょっとアレに似てた。

 

大概の革命家たちはルドルフのことをうさんくさいと思っている(ように見える)のに対して、エルマーはルドルフに対して本気であるのを感じる。エルマーを庇うルドルフ。ここの演出、宝塚版でも好きなので東宝版にもあるのは嬉しい。本来、エルマーたちはウィーン版にはいない、宝塚版のためにつくられた登場人物だけれど、三人の革命家たちが東宝版にも登場してくれたのは嬉しい。

名をなのれと迫られるルドルフ。葛藤に顔を歪ませ、苦渋の決断として、ようやく自分の名前を吐きだす。「ルドルフ・・・、・・・ハプスブルク、」つきつけていた銃をおろし敬礼する兵士たち。命は助かったけれど、この瞬間にすべてを失ったルドルフ。この助けた命の比重がどちらかと云うと自分よりもエルマーにあったら、いいな、と、まあそれは勝手な願望ですが。

 

父である皇帝、フランツから王位継承権は難しいと宣告され失意のどん底にあるルドルフの元へ最愛の母親、エリザベートが帰ってきた。エリザベートに父への説得を頼むが拒絶される。僕とママは合わせ鏡、似たものどうし、おたがいを解り合える、そう、さしのべた手さえ、わからないわ、とはねかえされる。その手が冷たく震えていることに、エリザベートは気づかない。ルドルフを死に至らしめたのは王位継承権の剥奪でも父親からの叱責でも革命の失敗でもなく、母、エリザベートからの拒絶、これが決定的な絶望となった。

東宝エリザベートの無慈悲っぷりが凄まじかった。ミリも息子をみていない、どうしてここまで冷酷になれるのか、母親のこんな目をみたら、それはもう絶望しかないだろう。それはルドルフの死の要因としてじゅうぶんに納得できた。

それは同時に、マイヤーリンクの心中事件の真相をにおわせている。ルドルフの死は、宝塚作品にもある『うたかたの恋』ではルドルフとマリー・ヴェッツェラの悲恋の結果として描かれているが、他にもいろいろな説がある。その説のひとつとして、トート=エリザベートによって死の引導をわたされたとは、なんと残酷で、グロテスクなことなのだろう。

 

宝塚版ではルドルフが拳銃で自殺をしたあと、トートがルドルフを抱きよせて口づけをする。今回びっくりしたのは、ルドルフがトートをひきよせ、みずからトートに口づけをして、それから拳銃で自殺をする。と云う演出の違いだ。

運命に翻弄されるがまま死に至ったルドルフ、その骸にキスをあたえるトートはその死を慰撫し、魂を導いているかのようであった。しかし、生あるルドルフが自らトートにキスをする、まるで毒薬を飲むように、ルドルフはトートから死の接吻を奪ったのだ。そこにあったのは、まさしく、僕の命は僕だけのもの、そう激昂するルドルフの強い意志であった。

トートは何もしない。トートはやはり、そこに在るだけ。とてつもなく受け身なトートだ。しかし、トートからは冷酷さや残酷さは感じない。慈悲や慰めも感じない。ほんとうに、ことごとくこの城田トートに感じるものは、神の愛(基本的に何もしない。放置プレイ的な。)これにつきるのです。超然として、神か赤子か、もうどちらかの存在としか思えない。

しかし、ルドルフに唇を奪われてしまうトート。このハプニングキス感はちょっとそわっ、となった。

 

ルドルフの死を嘆くエリザベート。すべてのことがらがエリザベートを昂みからどん底の底へと突き堕すための仕込みであったのかと思わせるほどの不幸に、エリザベートは泣き叫ぶ。しかし、この嘆きのなかにあってさえ、エリザベートの苦しみは、その苦しみさえも彼女自らが選んできたものだと感じてしまう。だから、トートに死を乞うのも、いっときの激情に過ぎず、まさしく「まだ私を愛してはいない」本気で死を願ってはいない、そう、感じた。息子の死さえ、エリザベートを支配することは出来なかった。

かけよるフランツの手を強く振り払うエリザベート。二回も振り払った。完全に、エリザベートの瞳にフランツは映っていない。フランツの丸くなった背中が痛ましい。

 

キッチュ!ルキーニによるエリザベートのネガティヴキャンペーン絶好調。山崎ルキーニの客席いじり。

 

夜のボート。

最後の最後まで、このふたりの道は交わることがなかった。まさに、永遠のすれ違い夫婦。出逢ったときからずっと、今も、そしてこれからも。この夫婦がわかりあえることは永遠にないだろう。すごいのは、そのことにまったく気づいていないフランツ。まだ、ふたりでよりそい生きていけると思っている。もうここまでくると、グランド・アモーレ!これこそが、フランツの愛なのだと、その偉大なる愛に感嘆した。

田代フランツの誠実さと隙のなさと、それゆえにそのひずみからもれいずる狂気が何よりの強い説得力となった。夜のボートはその歌でなにもかもをねじ伏せることのできるほどの力があった。

このシーンと云うか歌が大好き。こんなにとんちんかんな夫婦なのに、なんでこんなにいいシーンになるんだろうと思うくらい、ほんとうに好きな場面。歌も、最高。

 

悪夢。

ここでフランツがようやく主語になります。夜のボートでフランツの偉大なる愛に気付いたあとなので、この場面への昂揚感は最高潮に達しているため、東宝エリザベートのなかでいちばん好きだと感じる場面かもしれない。

フランツは夢をみます。オペラ仕立ての、次々と親族たちが狂い、死んでゆく夢。それは過去であり、また未来でもある。かのルードヴィヒも登場します。エリザベートの従甥である夢うつつのなかに生きたバイエルン王。狂った末、湖に身を投げたといわれています。しかし、真相は・・・この物語のif物語が宝塚でも上演されました。この王とエリザベートとのつながりにはとても関心があるので、ルードヴィヒが登場した瞬間、体温上がりました。フランツの弟、マクシミリアンはメキシコ皇帝となったが処刑された等々・・・次々と不幸な死をむかえる一族たち。ハプスブルクの歴史の呪いをまざまざとみせつけられたフランツはそのなかにエリザベートの姿を探す。しかしトートは、もはやエリザベートは私のものだと宣言する。フランツがエリザベートを求め彼女の名を呼ぶ絶叫で、この物語のクライマックスの幕が開く。

このとき、山崎ルキーニは舞台下手のすみのほうで膝をかかえて、じ、とすわっている。軽薄な嫌味を言うこともなく、上目づかいで、何か口のなかでぶつぶつ言いながら、舞台でくりひろげられている華やかな悲劇とはまるで別世界に在るように、そう、その様子は彼の鬱屈とした暗い子供時代を彷彿とさせた。何故、そう思ったのか、膝をかかえている姿が子供のようだったからだろうか。卑屈で暗い目をした子供、笑顔さえも歪んで、誰からも愛されず忌み嫌われて生きてきた、ルキーニの物語が、ぶわあっと、押しよせてきた。可哀そうとか、同情とかでなく、恐怖と嫌悪、気味の悪さで眩暈がした。この膝をかかえたルキーニをみた瞬間、オペラ越しで興奮のあまり泣いた。さっきから興奮しっぱなしじゃないか。でもここが最高潮でした。

 

トートからわたされたヤスリのような刃物で通りすがりにエリザベートを刺したルキーニ。エリザベートは刺されたことに気付いていないかのように、静かにたたずんだまま、そうして、ゆっくりと、倒れた。

あっけない、死の瞬間。抵抗するわけでもなく、積極的に刃をその身に受けるわけでもなく、うっかり指に棘をさしてしまったみたいに、ルキーニの刃で死んだエリザベート。劇的な人生の幕引きとしては実にあっけなく、死は、万人のうえに降るが如く、彼女のうえにもおとずれた。

 

結局、勝ったのはトートなのか、エリザベートなのか。この死は、トートの仕業なのか、エリザベートの意志なのか。死は、そんなものとは関係なく、突然にやってくるものなのである。そう、この永きにわたる愛と死の物語を嘲笑うかのように、死は、等しくそこに在った。ただ、それだけのことであるとでも言うように。

 

彼女を殺したルキーニでさえ彼女の死を操っていたわけではない。たまたま、刺した相手が皇后だったと云うだけ。いわば寿命をまっとうして自然の導きにより死んでいったかのごとくのエリザベートは、いつ死んでも別にどうってことない、そう云う胸中の中にあったのではないだろうか。だから、生ききった。よく生きた。もうじゅうぶんだ。私はせいいっぱい自分の命を生きた!最後まで、自分の命は自分の命だけのために生きた。彼女の死には、清々しささえ感じた。だから、彼女は自ら喪服を脱いだ。白い衣裳と光につつまれた彼女はその虚のなかにあらゆるものを受入れた。ハプスブルクの呪いも、いままでの不幸もこれからの不幸も、星の運命も、そうして、死─トートも。ようやく、彼女はもうひとりの自分を受入れることができたのだ。いままで飢えてからっぽだった彼女はあらゆるもので満たされて、そうして完全なる存在となった。それを勝利と云うならば、彼女は勝利した。私は私だけのもの、最期までそれを貫いたエリザベート、天晴。やはり、すごいひとだと、思った。

 

やはりこの『エリザベート』は恋愛物語ではなかった。けれど、偉大なる愛の物語だった。もうその愛は神の愛、宇宙の愛、生きとし生ける生きてないものもまるごとすべての愛、グランド・アモーレ!

エリザベートと云うひとりの少女の眸をとおして視た世界。そこに生きる人間たちの物語。人生には幸も不幸もない、人生を幸や不幸ではかることはできない、人生は、ただそこにあるだけ。それが『エリザベート』と云う物語。

 

京本ルドルフの少年のいびつさとも言えるその極端なまでの華奢さに、なんと云うルドルフ役者か、と、ほんとうにあたらしいルドルフ役者があらわれるたびに感嘆する。いるところにはいるのだ。ルドルフは。

 

城田トートがあらゆる意味で私の考えるトートであり、また、あたらしいトートであり、人間でないことがこんなにも似合う人間がいるのだ、と思った。

 

タトゥーがプリントされた肌襦袢はいかがなものかと思ったけれど、トートはあまり肌を露出しないほうがいい。でもわりとスッケスケなお衣裳がおおいよね。片方だけゴツい骸骨の飾りがついたブーツはおもしろかった。うすくてはかなげな素材にハードなデザイン。トートは飾りたて甲斐があるとはいえ、いつもお衣裳に格別の気合が入っているように感じる。

トートダンサーたちの露出が少なかったのは好ましい。上半身裸で踊りだしたときはどうしようかと思ったものだ。

 

私のスイッチがはいってしまった東宝エリザベート』2015。何がそのスイッチを押したのか。わからない。そのスイッチの在処もわからない。けれど、初演以来の衝撃を受けました。

 

これからまた違うキャストで観たら、また違う感想が生まれるかもしれません。

 

ひとまず、思い込みはなはだしい感想文はここで終わります。

こまかいところの相違はご容赦下さい。