裏庭

宝塚。舞台いろいろ。

東宝『エリザベート』(帝劇)一幕 感想文。※ネタばれ有。

(うろおぼえなところも多々あります。昂ぶるとSSをはじめます。魂のあらぶるままにかきなぐった私的見解感想文です。)


エリザベート 蘭乃。トート 城田。ルキーニ 山崎。フランツ 田代。ルドルフ 京本。バージョンの感想です。

 

19年前、日本初演でもある宝塚歌劇団雪組エリザベート』を観た。それから宝塚で再演を重ねるたびに観てきた。2000年の東宝版初演を観たときは、そのあまりのエグさ、生々しさに吃驚して、怯んでしまった。宝塚のエリザベートは少女漫画だったのだ。夢と愛でいっぱいの、美しい物語だった。それにすっかりなれしたしんでいたゆえに、東宝版の容赦ない演出にショックを受けた。正直、それから少し東宝版には拒絶反応をおこしていた。当時の雪組が演じた宝塚の『エリザベート』に衝撃を受けた私はそのエリザベートの世界をとても愛していたのだと思う。シシィと云う聖らかな少女が運命に翻弄されながらも強く健気に生きて、そうして愛によって死をその身にむかえいれ、天へとゆく。それが宝塚の『エリザベート』の世界。最初に出逢った物語がそれだった。はじめて『エリザベート』を観たときの強烈な印象は、ずっと、深く、わたしのなかにいまなお、在りつづけている。

その後、歴史を学び関連書籍などを読みエリザベートが何をしてどんな人物であったのかを知ることになる。歴史の真実など知らない。それでも記録にのこる彼女は宝塚のエリザベートとは違う顔をもった女性であった。ヨーロッパの歴史は凄惨だ。ハプスブルク家は呪いに満ち満ちている。そんな世界の話が、ゆめゆめしく美しい物語であるわけがなかった。しかしそれでも、私は宝塚の『エリザベート』を愛した。

だからこれ、はじめて観た『エリザベート』が東宝版の人は、そのあとに宝塚の『エリザベート』を観たら、そのあまりのぬるさにしらけてしまうのではないだろうか。コレジャナイ感すさまじいと思う。もちろん別ものとして楽しむことはできると思う、しかし強烈な想いでと云うものは、頭で感じるものではなく、肌で感じる感覚に似ている。痛いと云う感覚を頭で理解するのと肌でその感覚を受けるのとではまったく違うように。

 

結論、東宝版2015『エリザベート』は初演以来の衝撃でした。何が、何処が、はよくわからないけれど、しりこだま抜かれた。恐怖だった。舌でやすりを舐めるような感覚にぞっとした。最高にきもちわるかった。そう、きもちわるかった!!!

もう、『エリザベート』と云う演目に、何かを感じることはそうそうないと思っていた。楽しいとか萌はあっても、胸をえぐるような、そんな強いものはないと思っていた。ので、まさか、いまさら、こんな、ことになろうとは。思いだしただけでチビりそう。

 

宝塚版との比較もまじえながら感想を述べます。どちらかに天秤がかたむくとか、優劣をつけるとか、そう云うのではなくて、そうそう、あのときはこうだったよねえ、とか、こっちはさあ、とかそう云うノリで。

 

 

舞台セットがすでに煉獄だった。物語がはじまる前から、幕があがる前から、観客は客席に脚を踏み入れた瞬間から、この世界が最初から不幸のなかに在ることを知る。歪んだ双頭の鷲、朽ちた遺跡のような宮殿、舞台をつつみこむ黒い羽根、大きな棺、すべてが死のにおいをはなっていた。何と云う鬱世界か。もう席についただけで気が滅入りそうだったけれど、そこはなんといっても豪華な舞台美術なので、荘厳で退廃的な美しさを予感させる世界への期待が昂まった。はじまるまえから、この物語が不幸のなかからはじまりそうして不幸のなかに終わることを容赦なくつきつけてくる挑戦的な舞台セット。土台となるセットは固定なので、幸福な子供時代も、シシィとフランツの蜜月も、すべてこのセットのなかでくりひろげられる。「エリザベートがこの世界に現れたときから世界の終わりははじまっていた」そう、言っているようだった。まさに、死に愛された存在、むしろ彼女自身が死、そのものであったかのように。エリザベートへの畏れがそこには在った。

 

幕開きはルキーニの死から。ライトがつくまでに舞台のまんなかへトートダンサーたちがもそもそ集まってくる様子はちょっとおもしろかった。トートダンサーちゃんたちの出勤風景みたいで。

裁判官に、黒幕は誰だ、と問われ、話しちまってもいいんですかい?(SEのカミナリ音=トート閣下のnon!)すべては偉大なる愛だ!と、ふんわりとした答えをかえす宝塚版とは違い、あっさり、ぜんぶトート閣下ひとりのせいでーす、と全責任をトートと云ううさんくさい存在になすりつけるルキーニ。そのときそこにあるのは、黒幕なんて存在していない、ルキーニと云うひとりの殺人犯がエリザベートと云うひとりの人間を殺した、ただその現実だけだった。宝塚版に感じた、エリザベートとトートの偉大なる愛の物語はルキーニの二次創作なのでは・・・と云うifを感じる余地はなかった。これからはじまるのは裁判の場でのらりくらりとたわごとをくりひろげ愉しんでいる狂人の供述とその背景にある歴史をリンクさせた物語。まさに、ルキーニはこの世界の狂言回しであり、物語の中心人物を殺した人物であるにもかかわらずこの世界の枠のそとにいると云う、その立ち位置がはっきりとしていた。宝塚のルキーニは物語の世界にかかわりすぎていたため、その世界の登場人物となっていたけれど、このルキーニは「影」。登場人物たちが動くと、動く、じっとついてまわる、昏い時代からにじみでてきた、只々、影のような存在だった。

 

エリザベートの父親は自由を愛すると言えばロマンチックだけれど、登場時から浮気の現場と云う放蕩な人物。だけれど、宝塚版ではマックスの浮気現場は描かれていない。浮気をしていたなんて事実の描写もない。東宝初演を観たとき、これを描く必要はあったのかとそのときは疑問だったのだけれど、あとで、立派にみえる父親の真実の姿は自分の娘の家庭教師と白昼堂々浮気をする堕落した人間であると、まだ何も知らない無垢なエリザベートを嘲笑う、エリザベートにむけられた悪意と云う名の小さな棘のヒトツなのだと気づく。

そしてこの家庭教師・・・りりこちゃんじゃないですか!なんと、よい役をもらえて・・・。TV東京のカラオケバトルで優勝したりもした超絶歌姫ですよ。これからばんばん歌っていってほしいな。期待。

 

宝塚版では死をまえにして強い生への渇望をみせるシシィにトートが恋をした瞬間がはっきりとわかる。でも、この東宝版のトートは恋をしたのか。わからない。と云うか、初見、城田トートはシシィに恋愛感情を抱いたようには思えなかった。シシィと対立するほどの激しい感情もみえない。もっと、とらえどころのない、ぼう、っとした、あいまいな、そう、まるで幽霊精霊のような、人のカタチを成してはいるけれど、ほんとうはそれすらもない、名前もない、「何か」。彼が生まれたのはシシィが生を渇望したその瞬間、シシィからきりはなされた「死」が具現化した存在、それが、トート(死)。シシィによって生まれシシィによって名付けられたもうひとりのシシィ。シシィが生の体現者なら、トートはシシィの死への渇望。あわせ鏡のようなふたり、双子のようなふたりは半身が半身に惹かれるように、もうヒトリのシシィはもうひとりのシシィのなかへ帰りたい、ひとつになりたいと求める。愛しあってむすばれたいと云うよりも、おたがいを受けいれてひとつになって、完全なるものになりたい。そう、願い求めるこの関係を、何といえばいいのか、それに名前はあるのか、わからない。ただ、すべてがただのあまったるいにもほどがある妄想にすぎず、まだ自分のなかでも消化しきれていません。

何かを思いだしますね。・・・私とアナタはうらオモテ♪・・・シシィとトートが背中合わせで歌って踊っている姿が・・・・・・・・・

 

宝塚版と違い主役がエリザベートと云うこともあり、トートひとりのシーンやナンバーはない。宝塚版ではあるトートのナンバーに入るところで場面がかわってしまうのでちょっとアレ、となってしまう。なじみのセリフもない。トートの意見を主張するようなセリフや感情をあらわす場面がいっさいない。ミルクの場面にもトートはいない。まさに、トートはシシィとルドルフがいるときにだけ存在することが出来る、そう云う存在として描かれている。シシィとルドルフは合わせ鏡のような関係、つまり、トートとルドルフの関係も同様でありまさに三位一体。母と子と聖霊だ。

 

ラストシーン。抱擁しながら手に手をとってふたりで共に天へと昇ってゆく宝塚版とは違い、シシィはひとりで棺のうえにその身をよこたえ、トートはその傍らで静かに、黙ったまま、ただ、そこに在るだけ。それは二人の愛が成就したよろこびの時ではなく、シシィが死と云う名のもうひとりの自分を受入れ、ようやく完全なる魂を手に入れた瞬間のようだった。

トートはようやく、シシィのなかへと還っていった。まるで迷子の子供が母の胸に還るように。シシィの死と共に、トートと云う個体の存在は消滅する。
ラストシーン、こちらを振り返ったトートの瞳は空っぽで、トートと云う存在が朝もやのように失きえてゆく、その瞬間を見た。

 

(このあたりほぼ妄想です。)

 

城田トートは、最後の最後まで何を考えているのか、その感情の在処がわからなかった。何を想っているのか。その双眸をみつめているとむしょうにせつなくなるのに、なにを映しているのか、わからない。宇宙みたいな眸をしていた。あれは赤ちゃんの目だ。なんと云う無垢な、もはや無垢と云う概念すらないトートなのだろう。城田くんがトートと云う役をどのように思い、演じているのか、ほんとうのところはどうなのか、それはわからない。ただ、一方的に受けとめた城田トートは善も悪もなく、色もにおいもない、風や花、草樹、宇宙のような存在だった。
 

話がいっきにラストシーンまでいってしまいましたが少し戻って。

 

ヘレネのひどいドレス、変なヘアーのセンスが抜群だった。おもしろくしようとしたのではなく、気合が入りすぎちゃって、ああなるひといるいる。手袋にぐるぐるまいたピンクのリボン、よく思いついたなあ。しかもそれが演出の一部に食い込んでくると云う、うまい。

 

フランツがシシィをいつ好きになってしまったのか、シシィのどこが気に入ったのか、まったくわからなかった。そりゃシシィも「姉さんの間違いじゃないの、」と聞き返したくもなる。それでもシシィ、君がいいと若きオーストリア皇帝は言う。美しい皇帝にそんなことを言われたら幼い少女でも、ときめいてしまうだろう。

 

宝塚版にはない、ヘレネのヒステリックなセリフが俗っぽくて、美しくはない演出だけれど、リアリティがある。また、母、ルドヴィカのセリフもあけっぴろげで、ヘレネの立場かたなしだけれど、
まあ、本音はそんなものなのであろう。とてもリアル。

 

そして、背筋が凍るようなおそろしい場面がここからはじまります。

シシィにプロポーズするフランツ。戸惑いながらも熱にうかされたようにそれを受けるシシィ。宝塚版では、このときの二人はまだ意志が通じ合い、同じ方向を向いていた。おたがいを理解しあって、きっとうまくやっていける、うまくやっていこう、どんな嵐も二人なら恐くない。とてもあまっちょろい理想を抱いてはいるけれど、そうやって相手に歩みよろうと云う姿がみえた。見つめあうふたりに、きゅん、とさえした。しかし、この東宝版のふたりは、もう最初から、ここから、まったく別々の方向を向いていた。ふたりの会話が、まったく噛みあっていない。おたがいの言う事をまったく聴いていない、理解していない。シシィははなから自由に生きたいとの主張一点張りをしているのに対し、フランツはきっぱりと皇帝と皇后には自由はないと言いきっている。にも関わらずふたりは、結婚しましょう私たち、きっとうまくやっていけるわ、そう歌うのだ。
どうしてそうなるのだ。最初から、こんなにもあからさまにすれ違いまくっていると云うのに。何このひとたち恐い。とんだサイコホラーだよ。とにかくこのふたりの会話が毛を逆なでされているみたいに、ぞっとした。

 

宝塚版のトート閣下は黄昏時の結婚式で司祭をやってしまうアグレッシブさをみせていたけれど、東宝版のトート閣下は遠くからその様子を俯瞰しているだけだった。

 

幸福そうに踊るフランツとシシィ。しかしやがてそのダンスの相手はトートの眷属たち、トートダンサーに替わる。それでも気づくことなく微笑みながら踊りつづけるふたり。やがてトートがあらわれ、最後のダンスのナンバーがはじまる。ここ、宝塚版だとトートの派手な見せ場なのだけれど、東宝版トート閣下は控えめ。

 

怯えながら広間の客たちの前でフランツに抱きつくシシィ。そこで、いやらしいイヤミをいれてくるルキーニ。ルキーニはことあるごとにシシィのネガティブキャンペーンをくりひろげる。世間の皆が知っている美しくも健気なエリザベート皇后は虚像であり、ほんとうは傲慢で自分勝手な我儘女だと嘯く。これは宝塚版への挑戦のようにも感じた。「宝塚ではそんなふうに言われているみたいだけれどね、ほんとうはこんな女なんだぜ、知りたくなかったかい?ショックかい?でもそれが真実さあ!」いやな感じ。でも、なんて説得力のある魅惑的な事を言うのだろう。ものすごく下世話で俗っぽいワイドショー的な猥雑さがそこにはある。そして、そのなかには真実と虚偽が入り乱れている。何が真実で何が嘘か。見極めるのは観客だ。そして、エリザベートと云う人物の事を考えるとき、そのことを、もうずっと考えているような気がする。こうやって長々とクダをまいているのも、その確認作業のためなのかもしれない。

 

結婚式の翌朝、皇太后ゾフィがシシィの寝室にやってきて、ベッドのシーツをガバッとめくる。初夜が遂行されたかどうか、つまりフランツとシシィが肉体関係になったのかどうか、確かめたのだ。そうして、白いシーツにシシィの破瓜のシルシはなかった。つまり、シシィはまだ処女なのである。皇后はつとめをはたせなかったと、ゾフィはシシィを嘲笑し、叱責する。なんというえげつない演出なのだろう。宝塚版にはない演出。まあ、ないだろうな。皇后は世継ぎを産むのが最大の仕事であるため、第三者が二人の初夜に立会い、事がなされるのを見届けると云うならわしは存在する。そういった意味を含めて、皇帝と皇后にはプライバシィと云うものは存在しない、自由など存在しない、フランツの言葉にはそこまでの意味が含まれていたのだと云うことを、シシィはこのとき初めて知ることになる。

 

フランツに泣きつくシシィ。でもフランツにとってそれらすべてはあたりまえの事だった。フランツはシシィのこの憤りが、王室のしきたりに慣れないせいだと思い、母である皇太后ゾフィの言うことを聴いていれば大丈夫だとシシィをなだめる。でも、

そうじゃない。そう云うことじゃない。

シシィはここではじめて、目の前にいる夫と自分がまったく別のいきものである事に気付く。しかし、フランツは不幸にも気づかない、いや幸運にも気づかない、と言うべきか。

 

私だけに。宝塚版では自害しようとしてシシィはナイフを喉に突立てる、しかし、出来なかった。シシィは泣き崩れ、それなら籠のなかでせいいっぱいあらがって生きていこう、私の命は私のものであると歌い、そのまま意識を失い倒れる。そこにトートがあらわれ、シシィの手からナイフを取り、ふたたびシシィに生きることを許す。シシィがトートによって生かされたかのような宝塚版の演出に対して、東宝版のシシィは自害をしようとはしない。泣きながら、それでも私の命は私のものだと歌い、そのまま光射すほうへしっかりと自分の足で歩いてゆく。宝塚版からは健気にも強く生きていこうとするシシィを感じ、東宝版からはしっかりと自我に目覚め、自立してゆくシシィを感じる。似て非なるこのヒロイン像。もっとも興味深い対比である。

 

二人の娘をゾフィに奪われたシシィ。娘たちを返すことを条件にフランツと共にハンガリーへ行くことを約束する。宝塚版ではその後、この二人の娘の話はでてこない。だが東宝版ではこの娘が、重要な鍵となる。

 

ハンガリー訪問。エルマー、シュテファン、ジュラの三人の革命家たち。宝塚版ではハンガリーの三色旗を掲げ、民衆を煽る。東宝版は皇帝に銃弾を放ち、未遂に終わるがあきらかに暗殺しようとする意志がみえた。しかし、トートの機転によりトートダンサーのひとりが囮となり、彼等は逃れる。シシィはマントを脱ぎ、三色旗のドレス姿でハンガリーを讃える。三色旗をまとった美しい皇后にハンガリー国民は熱狂する。絶望するエルマーたち。

私、勝ったのね。勝利を確信した瞳を煌めかせ高らかに歌うシシィ。もう、自分の力で生きてゆくことができる。ひとりで何だって出来る。私は勝利した。そう、自信たっぷりに歓喜するシシィを嘲笑うように、舞台中央に、小さな棺が現れる。ゆっくりと棺の蓋が開く、棺のなかには小さな遺体がひとつ。フランツとシシィの娘、ゾフィだ。血の失せた青い肉の塊には、かすかに目も鼻も口もある。グロテスクで残酷な演出。東宝版のみの場面ですが、確かにこのエピソードを宝塚の舞台にもってくるのは無理かもしれない。しかし、エリザベートの幼い娘が病気で死んでしまったというのは事実。シシィはトートが娘の命を奪ったと、トートを非難する。それは娘の死をトートのせいにして罪の意識から目をそらそうとしているようでもあり、娘を死なせてしまった、助けられなかった自分への叱責にも思える。こうやってみると、宝塚ではシシィのイメージダウンになるようなことはことごとく描かれていないことがわかる。逆に、東宝版はこれでもかと云うくらいにシシィを痛めつける。エリザベートと云う役は、このマイナスイメージをものりこえるほどのヒロイン力を求められる、どえらい役だとあらためて思った。

 

(それゆえに、たとえトートが主役の宝塚でも、この舞台のキモはエリザベートだと思っている。だから再演は、エリザベート役者があらわれたときにのみ、すべきだと、実はもうずっと思っているのだけれど。)


 

シュテファン役の広瀬くん。ひときわ長身で目立っていた。その他の場面でも、やはり目立つ。姿がとてもよい。これからイケコの舞台に登場してくる予感。

 

ウィーンのカフェ。東宝版では男しかいない。男だらけのカフェ。紳士と紳士の社交場。ここで紳士たちは婦女子には聴かせられないような政治や戦争の話をするのだろう、そのほかにも、女に聴かせられ話を。何となく、ここ、小池先生のこだわりと云うか、ここが大事なの、な、ところなんじゃないのかな、と思った。宝塚では娘役も使わないといけないから出来なかった、こだわり。

革命家たちは密かに集う。そこに、皇太子ルドルフ誕生のニュースがとびこんでくる。そうしてその革命家たちとルドルフのつながりを予感させるかのように現れるトート。運命が、静かに、音もなく動きはじめる。

 

子ルドルフ登場。教育係のゴンドルークル伯爵から逃げだしてきたところを皇太后ゾフィに見つかり叱られる。宝塚版にはない場面。ママに会いたいとせがむルドルフ。皇帝は強くあらねばならぬゆえに剣、水泳、体操etc…の訓練をするようにと厳しくルドルフに言いきかせるゾフィ。エリザベートはおまえを甘やかしすぎる・・・。皇太子ルドルフはあまりにも幼く、か弱い。しかしまだ母親に甘えたい年齢の幼子だ。とても可哀そうではあるのだけれど、ゾフィもまた、彼のことを考え、思っていることはわかる。

 

エリザベートの部屋。子供の教育をまかせてほしい、母親か自分か、どちらかを選べとフランツに最後通告の手紙をわたす。そこへあらわれるトート。シシィを机のうえに押し倒す、かなり大胆に押し倒している。そして宝塚版ではシシィに拒絶されたトートはシシィの前ではクールによそおいながらシシィの部屋を出た瞬間、せつなくてくるしくてたまらない顔をする。ここのトート閣下がとても好き。ああ、ほんとうに恋してるんだな、てカンジで。城田トートでも観たかったなあ。

 

ミルク。宝塚版ではト-ト閣下がルキーニらと共に民衆を煽り、共にハプスブルク王国を糾弾する。東宝版のこの場面にトートはいない。

 

民衆の中に未来さんがいた。お母さまったらいったい何を・・・?目立つので、ちょっとおもしろい。歌要員なのだろうけれど、未来さんはインパクトがありすぎる。

 

ミルクを求める民衆に空のミルク缶をみせ、ないものはないんだ!と冷酷に言い放つルキーニ。ミルクはどこへいった?ミルク風呂へ入っている皇后のところだ!そう言い放ち、民衆のエリザベートへの憎悪をなおいっそうと煽っておきながら、しれっと王宮にやってきたルキーニはミルク缶からたっぷりのミルクをそそいで、エリザベートの召使いにじゅうぶんなミルクを売る。この、民衆からみてもエリザベート側からみても憎らしく愛すべきところのまるでないルキーニのキャラ設定は絶妙。

 

リヒテンシュタインの秋園さん。お久振りです。ああ、またそんちゃんに会えたと云うよろこび。しかもリヒテンシュタイン!嬉しい嬉しい。

 

侍女のなかには真瀬さん、百千さん、七瀬さんがいます。なんてゴージャスな歌う侍女たちなんだ。

 

鏡の間。フランツがエリザベートの要求はすべて受入れる、私には君が必要なのだと懇願する。エリザベートの心はすでにフランツからはなれつつあるのに、フランツはシシィと出逢った頃のまま彼女に夢中である。いいかげん気づいてもいいと思うのに、恋は盲目、と云うよりもちょっと狂気じみたものをかんじてしまう。

エリザベートはフランツと共に生きてゆくことを約束するが、それでも私の人生は私だけのものだと、少しも譲ることなく、主張する。けっきょく、すれ違ったままのふたりなのだけれど、すれ違ったまま、物語はすすんでゆく。

このとき、宝塚版ではトートは銀橋の真中で主人公然としているが、東宝版ではエリザベートのうしろで、二人を凝、とみつめている。シシィとトートとフランツの三重唱。

 

シシィスターのかがやく黒髪と、純白のドレスのシシィは自分のありったけの美で武装しているようだ。なにもかもをもよせつけないほどの美貌を剣にかえて、シシィは宣戦布告し、戦いははじまった。

 

一幕終わり。

 

トートダンサーたちが何気につがいになっていちゃこらいちゃこらしている、けっこう大胆にガチでいちゃいちゃしているので、これ、黒天使たちだったらとんだ祭になってるな・・・と思った。彼等はいったい何者なのだろう。惑星のまわりを浮遊している星の欠片みたいなものなのだろうか。

 

剣さんのゾフィ。剣さんの現役時代にもし宝塚で『エリザベート』が上演されていたら剣さんはトートを演ったのだろうなあ。剣さんのビル@Me and My Girlが好きでした。

 

 

蘭乃さんはこのシシィ役が決まってからボイトレをしたのだろうか。したのだろうとは思うけれど、それが結果としてじゅうぶんにあらわれていなかった。声はでているのだから、蘭乃さんには血を吐くほどのボイトレをしてほしかった。ものすごくものすごく、期待していたのだ。

東宝版のシシィのほうが蘭乃さんには合っていると思った。やっぱり蘭乃さんは「エリザベート役者だ」そう思った。でも、帝劇ヒロインに求められる歌のレベルには達していない、そう思った。残念で仕方ない。そして、悔しい。彼女がもっている、「力」を、堂々と世界に知らしめたかった。

私は蘭乃さんのことがほんとうに大好きなんだなとあらためて思った。落胆しても、やっぱり見限ることはできないし、また蘭ちゃんのシシィを観たいと思う。本気の本気の本気でぜったいにもっとよくなるはずだと思っています。だからこのまま真っ直ぐにこの道をすすんでいって、いつか大きな壁にぶちあたって苦しんでも、「役者」をつづけてほしいと、心から思っています。
蘭乃はなさんのエリザベートが大好きです。

 

 

二幕の感想文につづきます。